執筆者紹介
株式会社メンバーズ
株式会社メンバーズは、「“MEMBERSHIP”で、心豊かな社会を創る」を掲げ、顧客と共に社会変革をリードするデジタル実装パートナーです。

2026年6月1日、日本のテック業界で興味深い動きが重なりました。メルカリは、執行役員/CTOだった木村俊也氏をCHRO(最高人事責任者)兼CAIO(最高AI責任者)に任命しました。掲げたビジョンは「HR for an AI-Native Company」。AI戦略と人事戦略の責任者を一体化し、働き方、意思決定・承認プロセス、組織構造、リソース配分といった人と組織の運営基盤そのものをAI前提で再設計するとしています※1。
同じ日、Sansanも新体制を発表しています。取締役/執行役員/CHROの大間祐太氏が、新設された「CAXO(Chief AI Transformation Officer)」を兼務。全社横断でAI変革(AX)を推進する役割を担うとしています。同社はすでに生成AI活用率が非エンジニアを含む全職種で99%に達しているものの、生成AIツールを1年以内に導入した企業は7割を超える一方で経営にインパクトを与えるほどの成果を実感している企業はまだ限定的だという自社調査を根拠に、この体制変更を説明しています※2。
もっとも、両社ともAIネイティブな組織文化を前提にすでに動いていた企業であり、自社とは前提が違うと感じる読者も多いでしょう。ただ、この動きを「先進テック企業の特殊な話」で終わらせず、自社に置き換えて考える価値がどこにあるのか、順を追って見ていきます。
マッキンゼーの調査によれば、労働者の70%が生成AIによって自分の業務の30%以上が変化すると予測しており、米国労働者の30%は2029年までに自分の仕事がAIなどに代替されることへの懸念を抱いています。一方、SHRM(米国人材マネジメント協会)の調査では、HR専門職の67%が「自社はAI主導の未来に向けたリスキリングを十分におこなっていない」と回答しています。技術の導入スピードと、組織・人材の適応スピードの間に、明らかな乖離が生じているということです。
この乖離を埋める鍵がどこにあるかは、ガートナーの分析が示しています。従業員のリスキリング・アップスキルに積極的に投資する企業は、AI投資からポジティブな事業成果を得る確率が2.5倍高いとされています※3。差がつくのは「AIを入れたかどうか」ではなく、「人への投資をどれだけ本気でやったか」だということです。
AI時代のHRが目指すべき到達点について、グローバルなHR研究機関であるThe Josh Bersinは明確な像を提示しています。単なる業務削減ではなく、AIで生産性と創造性を飛躍させる「スーパーワーカー」の創出と、事業戦略起点で人材・人事・事業データを統合する「Systemic HR®」へのシフトです。定型的な問い合わせ対応や書類選考、データ整理に費やされていた時間をAIが吸収することで、人事担当者は事務処理の番人から、組織デザイン、チェンジマネジメント、経営アドバイザーへと役割を再定義することが求められる、という構想です。
理想像としては筋が通っています。しかし同社の調査が突き出す数字があります。明確なHR向けAI戦略を策定できている組織は、全体のわずか4%にとどまるというのです※4。多くの企業がAIを導入してはいるものの、それを戦略に組み込めていない。ここに、いまのHR変革における最大の落とし穴があります。ツールを入れることと、権限や意思決定プロセスを再設計することは、まったく別の作業だということです。
日本企業に目を向けると、導入率そのものは高い水準にあります。日本経済団体連合会(経団連)が公表した報告書によると、会員企業の9割以上が何らかの形でAIを活用しており、業務部門別で見ると人事部門でのAI活用がもっとも活発だといいます※5。数字だけを見れば、日本企業のAI導入は決して遅れていません。
ところがOECDの調査では、別の顔が見えてきます。人間の管理職が担っていた指示・監視・評価などのタスクを自動化するアルゴリズム管理ツールを導入している企業に属する管理職の割合は、米国が90%、EU主要国平均が79%に達するのに対し、日本はわずか40%にとどまるというのです※6。AIを導入していても実際に有益な使い方はできていない。この差はどこから来るのか、雇用制度の観点から3つに分けて考えてみます。
ジョブ型雇用が中心の欧米企業では、職務記述書(Job Description)によって役割や評価基準がある程度明文化されています※6。AIに評価や配置の判断材料を作らせる際、何を基準に学習させればよいかがはっきりしているということです。
一方、日本企業の多くが採用するメンバーシップ型雇用では、職務の境界が曖昧で、「何をどこまで担当しているか」が人によって、あるいは異動のたびに変わります。AIに学習させるための評価軸そのものが定まっていないため、精度の高いモデルを作ろうとしても土台が不安定になりがちです。これは技術の問題ではなく、雇用制度側の準備不足が先に立つ構造だと言えます。
大手企業の多くには労働組合があり、評価制度や処遇に関わる仕組みの変更は、単なる社内システムの入れ替えでは済みません。AIを評価プロセスに組み込むという話は、労働条件の変更として労使協議の対象になり得ます。IT部門の導入プロジェクトとしてではなく、労務・法務を含めた合意形成プロセスとして扱う必要があるということです。この手続きの重さが、意思決定へのAI関与を慎重にさせる大きな要因になっています。
日本企業の評価は、上司との対話や裏側にある文脈(過去の経緯、本人の事情、周囲との関係性)を織り込みながら「納得してもらう」プロセスを重視する傾向があります。これに対して、アルゴリズムによる評価は基準が数値化・形式化される分、透明ではあっても「自分の事情を分かってもらえていない」という感覚を生みやすい。精度が高くても、納得感が伴わなければ現場は受け入れません。これら3つが絡み合うことで、AIを使ってはいるが、評価・配置・処遇という核心的な意思決定には踏み込めていないという日本企業特有の状態が生まれています。
人事業務における判断について、どこまでAIに委ねられるかを考えるとき、多くの議論は「AIの精度がどこまで信頼できるか」という点に集約されがちです。しかし実際には、精度とは別に「正当性(その判断をAIが下したことに、当事者や周囲が納得できるか)」という軸が存在し、この2つを分けずに議論すると話がかみ合わなくなります。
業務ごとにこの2軸で整理すると、着手すべき順番が見えてきます。
| 正当性のハードルが低い | 正当性のハードルが高い | |
|---|---|---|
| 精度が高い(技術的に確立している) | 労務問い合わせ対応、面談要約、勤怠データ分析 → もっとも着手しやすい領域 | 離職リスク予測、ストレス判定 → 判断材料として提示し、最終判断は人間がおこなう |
| 精度が発展途上(検証が必要) | 新しい採用マッチング手法、研修レコメンド → 小規模なPoCで検証しながら進める領域 | 評価の最終決定、配置・解雇に近い判断 → 現時点では人間が握るべき領域 |
後述する日立製作所の面談要約・引き継ぎ文書生成や、ソフトバンクの通話音声によるストレス抑制は、いずれも「精度は確立しているが、判断そのものの正当性が問われにくい」領域から着手している点が共通しています。人事担当者の作業を助ける、あるいは早期のシグナルを人間に提示するだけで、意思決定の最終判断は人間に残しています。日本企業がAI活用を広げる際には、まずこの構造を意識することが重要です。
逆に、評価の最終決定や配置転換、解雇に近い判断は、精度がどれだけ向上しても、正当性のハードルが下がりにくい領域です。ここに無自覚にAIを持ち込むと、精度の問題ではなく正当性の問題でつまずくことになります。「AIの判断が正確かどうか」と「AIの判断であることに納得できるかどうか」は別の課題だと切り分けておくことが、社内での合意形成を進める上でも重要になります。
国外の先進企業に目を向けると、「精度が高く正当性のハードルが低い領域」を軸に、業務プロセス全体を再設計した成果が数字として表れています。規模も雇用制度も異なるため直接の比較にはなりませんが、境界線をどう引くかという発想自体は参考になります。
IBMは、自社開発のAIエージェント「AskHR」をWorkdayやSAP SuccessFactorsなどの基幹システムと接続し、80種類以上の人事業務を自律実行させています。定型的な問い合わせは完全自動対応し、高度な判断を要する案件のみ人間のコンサルタントにルーティングする2層モデルを確立した結果、年間1,150万件以上の従業員対話のうち94%をAIのみで解決。HRサポートチケットの起票数は75%削減され、4年間で運用コストは40%減りました※7。
ユニリーバは、年間180万件を超える求人応募という規模に対し、ゲーム化した行動科学テストとAIビデオ選考を組み合わせた完全デジタル採用ファネルを構築しました。これにより年間7万時間の選考工数と100万ポンドの採用コストを削減しています※8。
シーメンスは37万人超のグローバル従業員を抱えるなか、認知型アシスタント「CARL」を12万人に3ヵ月で展開し、月間100万件以上の問い合わせを自動処理する単一窓口を確立しました。共同開発の当初5項目だった対応トピックは、200以上に拡大。5言語に対応し、20カ国・28万人の従業員をサポートしています。この自動対応により、HRスタッフが日常的な一次問い合わせに費やす時間とリソースの削減に貢献しています※9。
いずれも、最終的な採用・処遇の決定権は人間に残しながら、そこに至るまでの情報収集・一次対応・分析をAIに委ねる、という線引きを明確にしている点が共通しています。
日立製作所は、生成AIを活用したパーソナライズ採用を強化しています。面談内容の自動要約や引き継ぎ文書の自動生成をおこなうことで、面談者の管理負担を大きく軽減。そこで生まれた時間を、候補者との深い対話やより精度の高いジョブマッチングに充てる体制を整えています※10。採用の合否そのものをAIに委ねるのではなく、判断の材料を整える工程をAIに任せ、対話の質を上げるために人の時間を再配分するという線引きです。
ソフトバンクは、全社員約2万人を対象とした生成AIの全社導入と、厳格なガバナンス体制の構築を両立させています。HR領域では、コールセンターオペレーターの通話音声からストレス状態をリアルタイムで判定し、高ストレス時には自動的に休憩を促すコンディション管理システムを稼働させています※11。評価や処遇の判断にAIを持ち込むのではなく、離職や不調につながりかねない早期のシグナルを人間に提示するという役割にAIを限定している点が特徴です。
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人事業務で活用するAIの問題は、もはや企業の自主的な判断だけに委ねられるものではなくなってきています。EU AI法は、雇用・労働者管理・自営業へのアクセスに関わるAIシステムをハイリスクAIに明確に分類しました。採用選考、応募者評価、昇進・解雇の決定、パフォーマンス監視などが対象で、2027年12月2日以降、詳細な技術文書とログ保存、そして人間による監督の保持が法的に義務付けられます※12。
米国ではニューヨーク市のLocal Law 144が先行しており、雇用や昇進の意思決定を支援・代替する自動雇用意思決定ツールに対し、独立した第三者機関による年次バイアス監査とその結果の公表を義務付けています※13。
日本には現時点でAIを直接規制する単独の法律はありませんが、個人情報保護法や職業安定法の解釈強化、経団連の報告書や人事データ利活用原則を通じて、AIを人間の意思決定を支える機能として位置づけ、最終的な判断と責任は人間が負う「Human-in-the-Loop」の体制が強く提言されています※6。
つまり、どこまでAIに委ね、どこから人間が握るかというAI活用の設計は、もはや倫理的な姿勢の表明ではなく、コンプライアンス上の設計要件になっているということです。
ここまでの整理を踏まえると、着手の順番は次のように考えられます。まず、精度が高く正当性のハードルが低い領域(労務問い合わせ対応、面談要約、勤怠データ分析など)から着手し、承認フロー・ログの残し方・人間が最終確認するタイミングといったガバナンスの型を、小さい範囲で作ってしまうことです。
この型ができれば、次に精度が発展途上でハードルが低い領域(新しい採用マッチング手法など)にPoCとして展開し、検証を重ねます。評価の最終決定や配置・解雇に近い判断まで進めるのは、ここで積み上げたガバナンスの型と、労使協議を含めた合意形成の実績があってからでも遅くありません。最初から評価や処遇にAIを組み込もうとする必要はないというのが、事例から見えてくる現実的な進め方です。
なお、社内で提案する際の言葉選びも意外と重要です。「AIに意思決定を委ねる」という表現は、経営会議やCHROへの説明では警戒感を招きやすくなります。実務としては同じ内容でも、「人間の最終判断を残す設計にする」という言い方のほうが受け入れられやすく、労働組合や現場マネージャーへの説明でも合意形成が進みやすいはずです。
メルカリとSansanが同じ日にアナウンスしたCHROとAI責任者の統合は、単なる組織の変更ではありません。人事という機能の役割そのものが、「人を管理する」から「人とAIの権限配分を設計する」へと移りつつあることの表れだと捉えたほうがよさそうです。
AIが人事にもたらす影響を「業務の効率化」で語り終えるか、「権限配分の再設計」まで踏み込んで語るか。その差が、これから数年のHR部門の存在感を分けることになると考えられます。この変化の入り口に立つ人事責任者に、持ち帰ってほしい問いは3つです。
※本コラムは、2026年8月時点の公開情報をもとに構成したものです。
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