執筆者紹介
株式会社メンバーズ
「“MEMBERSHIP”で、心豊かな社会を創る」を掲げ、DX現場支援で顧客と共に社会変革をリードする、株式会社メンバーズです。

AIの使われ方は、ここ数年で大きく変わってきました。文章を書く・要約するといった単発の作業を支援するコパイロット的な使い方から、申請の処理や問い合わせ対応、判断の実行といった一連の業務プロセスを任せるオートパイロット的な使い方への移行が進んでいます。
一方で、AIへの投資が実際の事業成果に結びついていない企業が依然として多いことも、MIT(マサチューセッツ工科大学)やGartnerといったトップ調査機関から具体的な数値とともに指摘されています※1※2。モデルは賢くなっているのに、現場の生産性や収益にはうまく反映されない。この「賢いモデル」と「変わらない現場」のギャップこそが、いま多くの企業が直面している課題です。
これらの課題に、米国のスタートアップアクセラレーターであるY Combinatorは2026年、「Company Brain(カンパニー・ブレイン)」を、AIによる企業自動化に欠かせない基盤技術として位置づけました※3。
YCのパートナーであるTom Blomfield氏は、これを「断片化したあらゆる情報源から知識を抽出し、構造化し、最新の状態に保ち、AIが実行可能な形に変換する仕組み」と説明しています※4。単なる社内検索やドキュメントへのチャットボットではなく、返金処理や価格の例外対応、トラブル時の対応方法といった、会社が実際にどう動いているかを示す生きた地図だという定義です。
一つでも欠けると、検索アーカイブ、単なる文字起こし、根拠のない推測、チープな自動化止まりになる
なぜこうした仕組みが必要なのでしょうか。AIスタートアップSentraの創業者であるAshwin Gopinath氏は、会社という組織は、議事録やチャット、メールといった事実の記録はどんどん蓄積していく一方で、なぜその判断をしたのかという解釈や文脈が失われることで認識のズレや連携の不備が生じ、チームのスピードが低下する原因になると指摘※5しています。
例えば、ある顧客がシングルサインオン対応を求めてきたという事実は、CRMに残ります。しかしそれがなぜ重要だったのか、他にどんな選択肢を検討したのか、誰が反対していたのかという判断の背景までは、通常記録に残りません。担当者が異動や退職をすれば、その文脈はそのまま失われ、後に残るのは結果だけのログです。
会社が日々回っているのは、実はこうした文脈を人間がなんとなく覚えているからです。この件はあの人に聞けばわかる、この判断には以前の経緯があったはずだ、というように、組織は属人的な記憶のネットワークによって成り立っています。しかしAIエージェントには、この「なんとなく」が通用しません。文脈が言葉として残されていない限り、AIはそれを使うことができないのです。
つまり暗黙知のデータベース化とは、単に文書を増やす作業ではありません。判断の背景や文脈を、AIが参照できる形で残し続ける仕組みをつくることです。それができていない会社は、どれだけ高性能なAIモデルを導入しても、結局は事実は知っているが、なぜそうなったかは知らないAIを運用することになってしまいます。
理屈はわかっても、実際に取り組もうとすると、多くの企業が同じところで足を止めます。ある製造業の情報システム部門が、コールセンターの返金対応にAIエージェントを導入しようとしたときの例で考えてみましょう。
返金対応には、マニュアルに書かれた手順だけでなく、長年の運用のなかで積み重ねられたルールがいくつもあります。たとえば未開封なら全額返金だが、開封後でも初期不良が疑われる場合は例外的に応じる、長期顧客には多少の柔軟な対応をしてよい、といった判断は、ベテランの担当者の頭のなかにしかありません。
情報システム部門の担当者が各部署に「返金対応のルールを教えてください」と声をかけても、誰も全体像を把握していないため、何をどこまで集めればいいのかわからず、プロジェクトは早々に足踏みしてしまいます。
そこで、ベテラン担当者に手順書を書いてもらおうという話になります。しかし手作業でのドキュメント整備は長続きしないことが調査で示されています※6。ドキュメント分析企業Zoominの調査では、企業の技術文書の68%が半年以上更新されておらず、34%が1年以上手を加えられていなかったと報告されています※7。
情報システム部門がドキュメント作成をノルマとして課しても、最初の数週間だけ更新が続いて、その後は誰も見ないWikiの墓場になっていく。これは多くの現場で繰り返されてきた光景です。
ここで担当者は方針を変え、AIツールに知識を集約させようと考えます。残っている手順書やマニュアルをすべて読み込ませたチャットボットを導入し、これで返金対応のルールがAIに伝わったはずだと一安心します。
しかし実際に運用が始まると、AIは手順書に書かれている表向きのルールしか答えられません。開封後の初期不良や、長期顧客への柔軟な対応といった、現場でしか積み重ねられていない例外的な判断には対応できないのです。
担当者が導入したのは、社内文書を検索してAIが回答を生成する仕組み、いわゆるRAGでした。RAGは質問に関連しそうな文書を探し出し、その内容をもとに回答をつくる仕組みであり、すでに書かれている文書を探すという機能にとどまります。手順書に書かれていない暗黙の了解までは、もともと拾えない設計なのです。
そこで担当者は次に、AIエージェントに実際の返金処理を任せようと考え、エージェントの実行環境であるハーネスの整備に着手します。どの基幹システムを呼び出せるか、どこまでの金額なら自動承認していいか、実行結果をどう検証するか。これはエージェントに安全に運転させるための免許や操縦装置にあたるものです。
ハーネスが整ったことで、エージェントはたしかに返金処理を実行できるようになりました。しかし、判断の精度そのものは変わりません。初期不良かどうかの見極めや、長期顧客への対応といった、もともとAIが知らなかった判断基準は、依然として人に確認するしかないままなのです。
ここで見えてくるのは、RAGとハーネス、そしてCompany Brainが、それぞれ別の役割を担っているという事実です。RAGは文書を探す機能、ハーネスはエージェントが安全に動くための操縦装置です。これに対してCompany Brainは、そのエージェントが正しく判断するための土地の知識、いわば地図にあたります※8。
免許を持ち、操縦装置が整っていても、道を知らなければ目的地には着けません。逆に道を知っていても、運転する手段がなければ実行できません。
Company Brainとナレッジ/エージェントの関係
厳密に言えばRAGとハーネスは技術的な階層が異なるものであり、Company Brainと並列の選択肢として比較できる概念ではありません。ここではあくまで、混同されやすい3つの言葉を整理する目的で、役割の違いというわかりやすさを優先して並べています。
しかし、あえてこれらを比較する理由は、AIエージェントの活用にはこれらを連携することが不可欠だからです。RAGで手順書を検索し、Company Brainが正しく判断し、ハーネスで実際の処理を実行する。この3つが連動して初めて、マニュアル外の複雑な実務であっても、AI自ら正しく判断を下し、人の手を借りずに作業を完結できるようになります。
先の情報システム部門が直面していたのは、免許は取らせたが地図を渡していない状態。ハーネスを整えることと、会社の知識がAIで使える状態になったことは、別の話なのです。多くの企業が「基盤は整えたのに、なぜか期待通りに動かない」と感じる原因の多くは、この見落としにあります。
仕組みづくりの前に、現場の一人ひとりが今日からできることがあります。筆者自身が日々実践していることも交えながら、4つの視点を紹介します。
口頭のやり取りだけで意思決定を進めてしまうと、その背景は誰の記録にも残りません。大切なのは、チャットツールなどのテキストが残る場所で、判断の理由を一言添えておくことです。
Aプランで進める、というだけでなく、Aプランで進める(Bプランはコスト面で今期は見送り)と書き加えるだけで、その記録はあとでAIが参照できる知識へと変わります。会議後にまとめて議事録を清書する必要はありません。決めたその瞬間に、その場で残す。この習慣の有無が、数ヵ月後の文脈の厚みに大きく影響します。
体系立てた文書を書こうとすると、それ自体がハードルになって続きません。現代のAIは、断片的なメモや箇条書き、会話のログから文脈を補いながらまとめることが得意です。何も残さないよりも、断片的なメモを一つ残すほうがはるかに価値があります。あとからそのメモをAIに渡せば、ある程度の精度を持ったドキュメントが生成できます。完璧に仕上げる作業は人間がやらなくていい。記録する、整える、の役割を分けて考えることが、続けるための発想の転換です。
業務の属人化は、組織の課題として語られることが多いですが、もう一つの見方もあります。AIエージェントによる業務の自動化が進めば進むほど、ルーティンワークはエージェントに移行していきます。
その先で希少性が増すのは、関係者を動かすコミュニケーションスキルや、文脈を読んだクリエイティブや戦略のセンス、意思決定のスピードといった、人間固有の能力です。属人化している業務を「言語化されていないだけ」と捉え直し、そこにある知識をAIに渡す作業と並行して、自分自身の人間的な能力に磨きをかけることに力を割く。その両立が、AIと共存する時代の現場担当者に求められる姿勢です。
多くの人が現在の業務の延長線上で仕事をしています。すぐにエージェントがすべてを変えるわけではありませんが、長期的にはその可能性は十分あります。
そこで筆者が今実践しているのが、プロジェクト管理ツールへの入力の徹底です。すべてのタスクに対して、目的・期待する効果・指標・カテゴリ・優先度・期限を入力しています。これは将来的にプロジェクト管理ツール上でエージェントが動作することを見越してのことです。
社内業務は毎年繰り返しのものが多く、どれだけ精緻に文脈をAIに渡せるかが、タスクの完成度に直結します。意識していることは、人間の同僚に伝えるつもりで書くのではなく、文脈を何も知らないAIに伝えるつもりで書く、という視点の切り替えです。この積み重ねが、将来エージェントが実際に動き始めたときに、大きな差をつけることになると考えています。
現場の行動変容は、マネジメントの姿勢にも大きく左右されます。ここで大切なのは声かけや精神論だけに頼らないことです。継続させるためには、評価制度や業務設計といった仕組みに手を入れる必要があります。
ドキュメント作成をノルマやKPIにしてしまうと、形だけ整えた中身のない記録が増え、チームは疲弊し、形骸化します。オンラインミーティングであれば録画したものを議事録としてAIで清書するだけでも、後々役に立つことがあります。なるべく入力は自動化しましょう。
これが助かった、この記録があったから判断が早くできたというフィードバックを、できるだけ具体的に、できるだけ早く返すことが効果的です。ドキュメントの量ではなく、共有したという行動そのものを評価する文化が、継続の鍵になります。
あわせて、属人化した知識を個人の能力としてではなく、チームの資産として評価する視点も必要です。あの人しかできないという状態を称賛し続けると、知識を抱え込むインセンティブが生まれてしまうため、評価軸をチームに開かれた知識をどれだけ生み出したかに少しずつシフトさせていくことが求められます。
声かけや感謝の言葉だけでは、継続的な行動変容にはつながりません。可能であれば、知識を共有したという行動を、評価項目として明文化することです。たとえば人事評価のコンピテンシー項目に「ナレッジの言語化・共有」を加える、半期の目標設定(OKRやMBOなど)にナレッジ関連の項目を一つ含める、といった形で、評価制度のなかに組み込みます。
ナレッジシェアは、発信した行動量と、それが組織にもたらした影響度の2軸で評価します。行動量は、作成したドキュメントの本数、更新頻度、社内からの質問に対する回答数、影響度は、閲覧数や高評価数、資料のダウンロード数、ベストアンサー獲得数などで測れます。
現場の一人が始めた小さな取り組みは、当人だけの実感にとどまっていると、やがて埋もれてしまいます。一つの業務だけでも、残された知識をAIが実際に活用できた事例があれば、それを部署のミーティングや社内報といった場であえて取り上げ、誰が何を残したことで何が変わったのかを具体的に紹介することが大切です。
この積み重ねが、これは効果があるという実感を現場全体に広げ、次に手を挙げる人を後押しします。成功事例は黒子のままにせず、マネージャーが見つけて、語って、広げる。これもまた、ナレッジを称賛するマネジメントの一部です。
関連コラム:属人化はなぜ起こる?部門間のナレッジシェアを仕組みで解決する方法
AIモデルの性能は、大抵の企業において十分なレベルに達しています。これからの競争優位を分けるのは、会社の暗黙知、すなわち何が起きたかだけでなく、なぜそう判断したかを、どれだけAIが使える形にできているかです。RAG、ハーネス、Company Brainは、似ているようで役割が異なります。これらが揃って初めて、AIは現場で実際に機能します。
そしてその一歩目は、大がかりな技術導入ではありません。日々の判断を、ほんの一言でも言葉にして残す。その小さな習慣の積み重ねが、会社の記憶(Company Brain)をつくっていきます。
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